池口恵観師(高野山真言宗大阿闍梨)は、とうてい普通の人が出来ない
火を使った激しい護摩行(火を転じて煩悩を焼き尽くす仏道修行)を
人の苦しみを分かるために行ってきたと語ります。
人に同情を寄せることは出来ても、同じく感じることは
なかなかできることではありません。
護摩行は「同悲・同苦」の心になりきるために行ったそうです。
しかし、池口師は言います。護摩行に打ち込まなくても、同悲・同苦の
思いになることができると。
それは普段、どのような心持ちで心を養って生活するかということです。
自分自身を振りかえってみると、子どものころのいじめから、筆舌に尽くせぬような
苦しい思いはたくさん経験してきました。
その苦しみや悲しみは、他の人のそれとは違うかもしれませんが、
その辛さを思い出して、相手の心に同化していく努力はできるではないかと
思いました。
経験は糧にしないと意味がない。苦しい体験はそのときは本当につらいものです。
しかし、後に他の心に寄り添って、他の悲しみを共有できる自分になることが
できる。
苦しみは希望の種。
私はそう信じたいと思いますし、池口師をはじめとした仏道修行者はそのような
修行で「同悲・同苦」の心を養ったのだと思います。
私自身、なぜか自分が人に弱音を話すことが多い反面、他人から相談事や愚痴を
こぼされることも多いので、この今までの体験を今に思い起こし「同悲・同苦」
の気持ちで聴かせていただきたいと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿